hibikore
「逃亡」をテーマに書いた作家で、すぐに思い浮ぶのが故吉村昭だ。『長英逃亡』『桜田門外ノ変』。幕府、国権を揺るがした謀反人たちが権力の目を逃れて逃げまわる日々の描写は息詰まる。逃亡者たちはたいてい、最後は悲惨な死を迎えるのだ。



北方謙三の初期の名作『逃がれの街』も逃亡者をテーマにした傑作だ。感情移入し過ぎて呼吸が苦しくなる。

 



オウム真理教の平田信、菊地直子の逮捕、収監の報道を見て思うのは、どんな極悪人であれ、「逃亡」は、一種の悲壮美を伴うものだと言うことだ。「道行」という言葉も浮かんでくる。
 

平田も菊地直子も事情を知るパートナーと同棲していた。パートナーは犯人隠匿の罪に問われることを承知でかくまっていた。二人ともかりそめの家庭を持ち、世間から身を潜めて生きていた。二人の逃亡者が、小動物に深い愛情を注いでいたという報道には、なにがしかの救われたような感情を抱く。


少なくとも、一般市民をいとも簡単に「ポア」していた狂気は水で洗ったように失せて、人なみの幸せを喜び、小動物を慈しむ心を取り戻していたのだ。


平田も菊地もつかまったときに「肩の荷が下りた」と漏らしていた。私は別に指名手配を受けた覚えはないが、こうした心持は理解できる。


オウム真理教は、ヘッドである麻原彰晃が逮捕され、死刑判決を受けた時点でおおよそ方がついてしまっている。残党は手足に過ぎない。マインドコントロールはとうに解けている。理性としては、凶悪犯罪に加担した人間に逃亡を許してはならないのは分かるが、心情的にはもう許してやってもいいような気さえしてくる。
 

しかし警察は、執拗に彼らを追い詰める。オウムはたかだか十数年だが、もう事件から40年も経とうかと言う過激派の元学生(といってもみんな60過ぎだが)をまだ追いかけている。彼らの犯した犯罪がそれだけ凶悪だと言うことだが、それだけでもないように思う。


反社会勢力は、オウムや過激派だけではない。日本には裏社会というべき影の勢力がいる。今の言葉でいうやくざ、暴力団である。彼らが全国で犯している罪は、数的にも重大さの点でも、オウムや過激派の比ではない。今、多くの一般市民を苦しませている犯罪の多くは、こうした裏社会の手によるものだ。


もちろん、警察は彼らと対峙し、これまでもあの手この手で勢力を殺ごうとはしてきたが、つい最近まで、オウムや過激派に対峙するときのような「徹底殲滅」の意気込みは感じられなかった。


想像するに、彼ら伝統的な裏社会は、表立っては反社会組織だが、裏に回れば国家権力と通底している。彼らは懐柔が可能な勢力。有体に言えば、金で解決できる連中なのだ。


これに対して、オウムや過激派が国家権力と妥協することはあり得ない。彼らは自身の命を賭して、自らが理想とする社会を築こうとする。司馬遼太郎さんが言う「発火性が高い」思想で、社会の転覆をはかろうとするのだ。


地下鉄サリン事件は、こうした過激勢力が本格的な暴力事件をおこした最初の事例だった。国家権力は、我々一般市民以上に戦慄したに違いない。この存在を許すことは、国家の基盤を揺るがしかねない。

こうした意識が、過激勢力に対する徹底的な捜査につながっているのだろう。


恐るべきは、こうした勢力が海外の過激勢力と手を結ぶことだ。彼らの手引きで、イスラム過激派のような「敵を殺戮して死ぬこと」が、何よりの栄誉だと考えるような人間が、日本に入ってきたら、この国はひとたまりもないだろう。


最近、警察が、暴力団への締め付けをかつてないほど厳しくしている背景には、従来の裏勢力が、中国や韓国など国外の裏社会と結託して事を起こしつつあることがあるかもしれない。


彼らは利に走る勢力ではあるが、日本のヤクザのように、国家権力で懐柔できるような質ではない。暴力団は、国際化することで国家と安易に妥協しない危険な犯罪組織になろうとしている。


長引く不況、そして格差社会の進展は、今までの同質社会に亀裂を生んでいる。これまで縁もゆかりもなかった一般市民が、裏社会に足を踏み入れようとしている。覚せい剤などの薬物を一般市民が嗜みだしたのは、足もとまで黒い水が押し寄せている証拠だ。


日本のセキュリティ・コストはこれからどんどん高くなっていくと思う。オウムの男女のような情緒的な逃亡とは異質の逃亡者が、これから生まれてくるのだろう。

 

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