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私は文章を書いてお金をもらう生活を、30年ほど続けてきている。作家ではなく商業ライターだし、名前が売れるほど成功もしていないが、何とか今も仕事にありついている。

なぜ、まがりなりにも仕事があるかと言えば、日本人(特に高齢者)で、まともに日本語の文章が書ける人が少ないからである。


ときどき、大学の同窓会の記念誌の編集をした。教官OBや、同窓会幹部から原稿をもらうことがよくあったが、その道では立派な業績をあげた学者や、実業界で成功した人からきた原稿が、恐ろしいほど下手で、手の入れようもないことが良くあった。
 

そういうときは「直接、生の声をお伺いしたい」と上手い事を言って、インタビューをさせてもらって原稿をまとめた。直接話を聞けば至極まっとうなことを言うのだが、文章にするとぼろぼろという人が多かったのだ。


他の国のことはあまり知らないが、アメリカなどでは、素人がベストセラーを書くことがあるようだ。
クリント・イーストウッドが映画化した『父親たちの星条旗』の著者の一人、ジェームズ・ブラッドリーは確か葬儀屋の社長だったはずだ。もちろん、編集者の手助けはあっただろうが、素人が書いた本が映画化されるほど売れるのは、日本ではめったにないことだ。


しみじみ思うのは、日本語で話すのと同じくらい流暢に文章を書くのは、すごく難しいと言うこと。だから、私もおまんまを食べさせてもらえているのだが。


では、なぜ日本語の文章は難しいのか。

 



以下は、私の勝手な推測だが。

 

それは、まだ、日本語の文章=書き言葉が固まっていないからだと思う。

 

古代の日本では、恐らく今の日本人が話す言葉の原型となる言葉が話されていたのだろう。
それは、「膠着語」。言葉と言葉を接頭辞、接尾辞などという言葉の最小単位でくっつける言語だったはずだ。
韓国語、モンゴル語などと親戚関係にある言葉。中世までの北九州の漁民、海賊は朝鮮の人々と普通に話せたと言われているが、そういう言葉だ。


そこへ、5世紀ころから、中国の文明や文化が、「中国語=漢文」という形で日本にやってきた。(持ってきたのは主に朝鮮人)。文字で書かれた言語=文章は、これまでの日本にはなかった。


それは、日本語とは類縁関係のない、「孤立語」に属する言葉だ。

日本人が話していた言葉と縁もゆかりもない中国語で書かれた文章は、そのまま上から下へ読んでも日本人には理解できない。


そこで、日本独自の漢文の読み方ができた。たとえば、こんな感じだ。


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読むときは「読み下し文」でも、書くときは「漢文」と言う時代が続いた。

そのうちに、中国語だけでなく、日本語もこのスタイルで書くようになった。


古代の終わりくらいの日本には


漢文(中国語) それを読み下した文(文語)、そして話し言葉(口語)の3種類が並び立った。

 

歴史書や公文書は、「漢文」で書かれ、プライベートの文章「日記」や女性の文章は「文語体」で書かれた。この時代が江戸時代の終わりまで千年以上続いた。

 

当時の日本人の話し言葉は「狂言」「文楽」などに残っている。しかし、日本人は話し言葉をそのまま文章にする習慣、発想がまったくなかった。「何何ですな」と話していても文章にするときは「何何にてそうろう」と言っていた。

また、江戸幕府の役人は、漢文で報告書を書いていた。

 

明治になって、西洋の真似をして議会が開かれることとなった。議会は出席者のすべての発言を「速記録」という形で記録しなければならない。今までのようにいちいち口語文(話し言葉)を文語文(書き言葉)に置き換えていては、議会の記録はできない。

 

そこで、口語文をそのまま文章にすることが始まったのだ。これを始めたのは、速記者だった。

 

この速記者が民間に進出し、寄席で演じられている落語などをそのまま速記するようになった。これが大ベストセラーとなった。これに刺激を受けて文学者に「言文一致運動」が起こり、話し言葉で文章を書くブームが起こった。

坪内逍遥、二葉亭四迷などの作家がそのリーダー役だった。

 

彼らの少しあと、明治半ばにあらわれた夏目漱石や森鴎外は、「言文一致」口語文を使って、多くのすぐれた文学作品を書いた。また新聞記者も口語文で記事を書いた。

 

口語文が始まったのは、今から110年ほど前のことなのだ。

ただし、それは民間のこと。しかし、日本のお役所は明治維新後も口語文を採用せず、文語文で公文書を書いていた。

戦後、日本を占領したアメリカ軍の指導もあって、公式文も口語文になる。口語文で書かれた最初の公式分は、日本国憲法だ(と思う)

 

話し言葉と同じ言葉で文章を書くのが一般的になってから、たかだか60年ほどしかたっていない。
戦前の教育を受けた人は、口語文の国語教育をそれほどしっかり受けていないから、文章を書くのが下手な人が多かったのだ。
 

良い文章を書く教育、練習法もまだ固まっていない。多くの人々が口語文をうまく使えなくても仕方がないのだ。

 

英語であれば、その文法や文章が定まって700年くらいはたっている。
むこうの中学生でも17世紀のシェークスピアを普通に読める。しかし、日本の大学生で、同じ時期に活躍した近松門左衛門が普通に読める人はほとんどいない。

 

しかも、この70年は社会や価値観の変化が非常に激しかった。まだ口語文は、固まっていないのに、どんどん変化している。

 

これが正しい!という定番がしっかりしていなので、日本語の文章は難しいのだ。
 

では、どうすれば、よい文章が書けるのか?そもそも良い文章とは何なのか?
 

次週から考えていきたい。

 

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