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司馬遼太郎の『街道をゆく』の「叡山の諸道」という章には、比叡山延暦寺で行われる天台宗の僧侶の試験「法華大会」の前日、比叡山ホテル(現ロテル・ド・ヒエイ)で、親とともに酒を飲む受験生の若い僧侶が描かれている。

 

前回、紹介したように、比叡山にはこれまでの人生を捨てて厳しい道に入った僧侶がいると思えば、親から車を与えられ、真綿でくるまれるようにぬくぬくと育てられた“御曹司”もいる。

最も厳しい修行と言われる「十二年籠山」や「千日回峰行」をしたからといって天台宗の最高位、座主になれるわけではない。やはり寺族出身の人が出世することが多いようだ。

命を削るような修行に励む僧侶がいる一方で、現実離れした贅沢な生活をする僧侶もいる。それが、“お寺の世界”。

かといって、お坊さんの口から他のお寺さんへの不満がもれることはない。他者の批判は口にせず、建前上は淡々としているのが、京都のお寺さんのたたずまいのようだった。

NTTドコモの携帯電話音声案内で、京都の巨刹、有名寺院をめぐり、ご住職や幹部僧侶の話をお伺いする仕事をしていると、目を疑うような豪奢な部屋に通されることがあった。和室ではなく、洋室。素晴らしい調度品が置いてあり、出される紅茶も特別のもののようだった。やがて、ゆっくりと部屋に入ってこられた住職は、ゆったりと構えて貴族のようだった。お話は十分にこなれてよどみなく、すでに何度も話しておられることがうかがえた。

取材としてはこういうお方は楽なのだが、率直にいえば、「商売物の言葉」を聞かされているようで、心は全く動かされない。口にされる内容は謙虚でも、その態度は自らがこの地位にいることに微塵の疑いも覚えていない、まさにセレブのようだった。

京都では「白足袋ものにさからうな」という言葉がある。「お茶人」「花街」そして「お寺さん」。白足袋を履くような業界の人たちが京の街を仕切っており、逆らっては商売ができない。大阪人の私にとっては「それがどうした」といいたいような話だったが、京都の人は得々としてこの言葉を口にするのだ。

もちろん有名寺院であっても、質素な生活が垣間見える住職もたくさんいたが「こんなものか」という思いも芽生えてきたのだ。

京都市東山区法住寺

小さなお寺だが、町の人の信仰を集める。11月には大根炊きが行われる。

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そんなある日、担当の方から「次のお寺さん取材は、有名寺院ではないのですがいいですか?」という電話があった。どうしても都合がつかなくて、市井の一般のお寺を取材してほしいとのことだった。もちろん異存があるはずもない。

訪れたお寺は三十三間堂の近く。本堂でご住職は待っておられた。しかし、先客がいた。本尊の近くに座ったご住職の前には、お婆さんが座っておられた。ちいさなくぐもった声でお婆さんは何事かをご住職に話していた。

前かがみになるようにしてご住職はお婆さんの話を聞いておられる。お婆さんの話が終わると、今度は後ろに控えていたセーラー服の女子高生がご住職に話をしだした。ご住職はまた熱心に聞いていた。

30分以上も経っただろうか、ご住職は待たせたことをわびて取材に応じた。ご住職は高校の教師からお寺を継いだが、毎日お寺を訪れる近所の人々の話に耳を傾けるのを日課としておられた。

とりたててアドバイスをするわけではない。気が付いたことがあれば話すが、とにかく相手の話を真剣に聞く。何人来ようとも、一人ひとりに向き合って、丁寧に応対し、悩みや迷いや不満やぐちを聞きとる。人の悩みは誰かに打ち明け、話してしまうことで七割がた解消すると言われる。ご住職はカウンセラーのような仕事を自らに課して、毎日続けておられたのだ。

有名でもないごく普通のお寺にもこんな方がおられる。私は、眼を見開かされる思いがした。そんな目で街を見ると、そこここにふつうのお寺がある。なにしろ日本には75千もの寺院があるのだ。寺院そのものへの関心が起こったのは、そのときだった。

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