koshitara-eeno

そもそも、良い文章とは何なのか。

そのことだけを解説した本もたくさん出ている。『文章読本』というタイトルにするのが、お決まりのようだ。ざっと上げてもこれだけある。

bunsyou-20120614向井敏 文章読本 (文春文庫)

もっとたくさんある。仕事柄、大体目を通したが、あまり参考になるものはなかった。

まず、書いているご本人の文章が、それほど良くないケース。申し訳ないが井上ひさしさんがそれだ。この人は、文章ではなく中身で読ませた人だと思う(私の主観ですよ)。

それから、あまりにも文章がすごすぎて、真似が出来ないケース。谷崎潤一郎がそうだと思う。この作家は、冗長にだらだら書きながら、しかもわかりやすかった。東京人にもかかわらず、関西弁を完ぺきに表現できた。耳が異常に良かったと思うが、それに加えて、文章に嵌めるべき言葉、表現をほとんど間違えなかった。この感覚の鋭さは、たぶん真似できない。「文章読本」は書いていないけど、志賀直哉なんかも真似が出来ない作家でしょう。

それから、たぶん自分で書いていないケース。川端康成がそれだと思う。

さらに、ご自身が常々旧仮名遣いで書いているため、感覚が今の人と少し違うケース。言うまでもなく、丸谷才一さんですね。

いろいろある中で、一番役に立ったのは、恐らく一番無名の向井敏さんの『文章読本』だ。この人は大阪電通の広告マンで、開高健、谷沢永一などと文学活動をしていた人。海老沢泰久や奥本大三郎など、これまであまり知られていなかった作家の文章を絶賛するとともに、大江健三郎や灰谷健次郎をこきおろした。どちらかと言えば、保守系の論客だったのだが、それ以上に文章に思想の色が混じることを嫌った人だったと思う。物故されて10年になるが、今もその本は色あせていない。おすすめです。

さて、向井さんは良い文章とは何だと言っているか。

「達意の文章」

だと言っているのだ。つまり、意味が読み手に達する文章。

なんだ、当たり前じゃないか、と思うかもしれないが、そうではない。

 

以下、私の文章論。

 

「達する」というのは、読み手が苦労して読み込んで、ようやく理解できる、というレベルのことではない。極端に言えば、ぱっと文面を目にしただけで、中身が伝わるような文章だ。

 

こういう仕事をしていて、つくづく思うのは、

「世の人は文章を読むのが大嫌いだ」

ということ。

今や、いい年をしたおじさんが、電車で少年漫画を開いているのを良く見かけるが、ああして漫画を見るのは好きだが、文章がびっしりと書いてある本は、見るのもいや、という人、実に多い。

 

文章は、そういう人に向けて、書くべきだと思っている。

たとえば、あなたが、学校や企業の入学、入社試験を受けて、その結果を待っているとする。郵便屋さんのバイクの音が聞こえて、ポストに何やら封書を投げ込む音がする。あなたは、泳ぐようにポストに取り付いて、学校名や会社名が書かれた封書を手に取って、もどかしい思いで封を開け、一枚の紙を開く。

恐らく、その瞬間に「合格」「採用」「不合格」「不採用」という情報が目に飛び込んでくるだろう。

究極の「達意」とは、そういうものだと思う。つまり、求める情報や内容が、瞬時に伝わるというもの。

 

もちろん、合格、採用通知を待つ人は、異様に集中力が高まっているから、どんな文面だって、瞬時に伝わるだろうが、並みのテンションの人に「達意」をするのは、大変だ。良い文章とは、そういう「ふつうの読者」に「最短で文意が伝わる」文章ということになる。

 

見方を変えれば、文章を「読ませる」のではなく「見せる」ということだ。

速読術というのは、私はよく知らないが、文章を筋をたどって読むのではなく、視覚的に覚え込ませることだと聞いたことがある。

少しそれとは違うと思うが、文法やレトリックなどとともに、文章の「見た目」にも意識しなければならないだろう。

 

とはいっても、文章は読んでもらえなければ始まらない。できるだけ、ストレスをためさせずに、さらに誤解や混乱を与えずに、さくさくと読み進んでもらうためには、どうすればいいか。

 

次週から、具体的な内容に入っていく。

 

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください! ↓