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秋元康と言う人間のテーマは、「日本人の琴線に触れる」と言うことではなかったかと思う。その活動のすべてを見てきたわけではないが、美空ひばり「川の流れのように」にはじまり、「おニャン子クラブ」、そして「AKB48」と続く彼の活動は、一見、何の脈絡もないように見えて、一点、「日本人(のある階層、世代)を狂わしいほどに熱中させたい。心を奪いたい。共鳴させたい」という目的において、すべて同じような気がする。

国民的歌手、国民的英雄と言われた人は、「日本人の心をつかんだ」「琴線に触れた」点で共通している。従来、それは、稀有な才能と、超人的な努力と、幸運が伴わなければなしえないことだった。望んでそれを得ようと思っても、なかなか不可能なことだ。まさに「神に祝福された人」セレブでなければ、達しえないステイタスだったのだ。
 

いつのころからか、秋元はこの地位を、才覚と、マーケティングと、ある種のマキャベリズムで、恣意的に、神の助けなど得ることなく掴もうとし始めたのではないか。

 



AKB48」は、「おニャン子クラブ」の経験がなければ、日の目を見ることはなかったと思われる。
 

「おニャン子クラブ」も、「AKB48」と同様に、かなり多くの女性からなるユニットであり、番組を通じて売りだしたのちにばら売りすることで、ユニットの寿命を長持ちさせるとともに、客層を広げていった。しかしながら、「おニャン子クラブ」のメンバーは、一人ひとりが十分にピンでタレント活動ができるほどに大人だった。また、彼女たちのマネージメントやコントロールを十分にすることができなかったために、ユニットとしての一体感はすぐに薄れていった。
また、テレビ番組からスタートしただけに、その番組の消長の影響を受けやすかった。
 

「おニャン子クラブ」も確かに国民的な人気を得はしたが、その人気は一過性であり、人気も他の有名タレントや、ユニットと競合するレベルのものであった。
 

また、このユニットは秋元康単独の企画、プロデュースではなく、複数の関係者による共同企画だった。彼としては、十分にやり切れなかったという思いもあっただろう。
 

秋元は、「おにゃんこ」の一人、高井麻巳子と結婚したが、彼女の考え、思いも十分に参考にしたに違いない。
 

以後、秋元は少女や少年などのユニットを何組か売りだそうとした。しかし、多くはヒットにはつながらなかった。

こうした「予習」を下敷きにして、「AKB48」は、今から7年前にスタートした。ターゲットを「ヲタク系」と特定し、リアルな劇場を拠点とした地道な公演活動から始めていった。さらに、メンバーは「おニャン子」に比べても地味で、素朴な少女を集めた。

 

バラエティ番組で、AKB48のメンバーが、ピンで売り出している女優やモデルなどと並ぶときがよくある。佐々木希、武井咲、長沢まさみなど、さまざまなオーディションを勝ち抜いてきた選り抜きの女性と、前田敦子や大島優子らが並ぶと「なんと見劣りのする」と思ってしまう。顔立ちも、スタイルも、立ち居振る舞いも、歴然と違う。
 

もちろん、AKBの少女たちも、「美」「醜」で分ければ「美」に入るとは思うが、非日常的な美人ではない。

よく言われる表現を使えば「手を伸ばせば届きそうな」少女たちを集めることで、秋元は「そのあたり」の少年、男性(女性)の心をつかもうとしたのだ。背景には「ヲタク」と呼ばれた極私的な趣味を持つ層が、急激に広がりつつあったことも大きい。
 

そしてメンバーの数を200人超まで広げていった。さらに、エリアに分けて彼女らの活動拠点を作っていった。

「中央集権」的なブームの創造ではなく、ご当地に根差した身近なタレント、その一人一人の人気を積み上げることで、大きな支持に束ねようとしたのだ。
 

数多くのメンバーがいると言うことは、バタ臭い少女から大人びた女性、幼い顔の女の子と、好みに合わせた様々なタイプのアイドルを内包しているということだ。一色に染めないことで、トレンドや、ブームなどの変化にも強い商品構成を作った。

ここまでは、クリエイター、プランナー秋元康の才覚が十分に生かされていると言ってよいのだろう。
 

見過ごせないのは、AKB48がまだマイナーな時代から握手券や同じCDの複数枚購入などの独特の商法を始めていたこと。マイナーゆえに見過ごされてきた商法を、巨大化しても続けてきた。この既成事実の大きさ。
 
世間、そしてマスコミは (ほとんど同義だが) 、その過程でとがめ立てしてこなかったことで、AKB48商法を黙認せざるを得なくなった。また巨大化するとともに、メディアはその余禄にあずかるようになり、さらに翼賛的になっていった。

 

GFFMANIAさんからご教示頂いたが、AKB48のメンバーは、異なる芸能プロダクションに分散して所属している。各プロダクションは、彼女たちを通じて、AKB48の売り上げから相応のおこぼれが回ってくる。この形を取ったことで、AKB48は芸能界をほぼ「オール与党」にすることができた。
 

クリエイティブとともに、恐ろしいまでに周到な戦略を立てて実行したのだ。マーケティングを、「売るためのすべての努力」と規定するなら、秋元康は、凄い マーケティング をしたのだ。
 

そして。その総仕上げに「総選挙」と言う形で、ファンの男女を熱狂させるイベントを作ったのだ。
 

まさに、地道な努力、用意周到な準備と、ち密なマーケティング、政治力で、秋元は「日本人の琴線」を、この手でしっかりと握ったのだと思う。

 

しかしながら、彼がそうしたかったのは、「日本人の琴線」の手触りの中に、「金目のもの」を見つけたかったからなのだ。琴線をつかまれた人々の財布から、小さくない金額を抜きとるために、ここまで遠大な計画を成し遂げたのだ。
 

身も蓋もない話だ。結局は、それか。そのことが露呈するにつれて、私は非常に不快で残念なものを感じるようになった。あまりにもあざとく、巧妙で、しかも強権的。業界全体に鼻薬を効かせて、そして人々から正常な価値判断を奪ってまで、このような利得がほしかったのか。

 

それは新興宗教家の活動にも似ている。しかし、宗教家は大きな金銭と見返りに、かりそめにせよ心の平安や、あの世での栄達や、何らかの有形無形のものを与える。
しかしAKB48の商法は、あくまでも「消費」だ。何十枚、何百枚と(自己責任で)CDを買った人たちは、ひいきの少女が何位に入った、という自己満足と、何百枚もの同じCD以外に何も得るはないのだ。

 

今、NHKで震災復興キャンペーンと題して「花は咲く」という歌が流れている。多くのタレントや文化人、スポーツ選手などが、小さく分かれたパートを歌い、最後は「はなーは、はーなは、花はさく」と大合唱になるもの。年のせいか、私は聞くたびに涙腺がゆるんでしまう。冷静に考えれば、ヘビーローテーションをすれば、大概の楽曲は、心地よく聞こえてしまうのだが。
 

この曲、秋元康が絡んでいなくて本当に良かったと思っている。「日本人の琴線」を手中にしている彼なら、この程度の歌は容易に作れたはずだ。もし、その歌で感動してしまったとすれば、私も彼に、魂を奪われたことになると思うからだ。

 

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