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今週から、私なりに「お寺のあゆみ」を考えていくことにする「お寺はどんな風に日本に定着していったか」についてしばらく考えたい。これは以前から書いていたものに加筆したものだ。

日本に仏教がやってきたのは西暦538年または552年と言われている。教科書にはそう書かれているが、恐らく、大陸から渡来した人たちの多くはそれ以前から、仏像を携えてきたに違いない。渡来人は、自らが信仰する仏様(念持仏)をおまつりするために、お堂を建てたと思う。そしてそのお堂を「寺」と読んだのではないだろうか。

 

寺を「てら」と読むのは、インドのバーリ語の長老theraまたは、朝鮮語の礼拝所choylから来ているという。大陸から来た人々が、お堂を「チョイル」と呼んでいたか、そのお堂を守る老人を「テーラ」と呼んでいたのかもしれない。それとその施設を意味する「寺」の字をくっつけたのではないか。

 

「寺」という字にはもともと、仏教施設と言う意味はなく、大きな建物、官立の建物を意味したようだ。秦漢の昔から中国の朝廷には「九寺」という制度があった。

太常寺、光禄寺、衛尉寺、宗正寺、太僕寺、大理寺、鴻臚寺、司農寺、太府寺の9つで、今の日本の制度でいえば「省」のような感じだったようだ。

 

外国の賓客をもてなすのは「鴻臚寺」。「鴻臚」とは、「おおとりの思い」のような意味。漢詩漢文の国だけに、役所のネーミングもロマンチックだ。

 

日本の朝廷は、官僚機構や制度など中国をお手本にした。日本でも外国の賓客をもてなす施設として九州に立派な施設が建てられた。これを「鴻臚館」と呼んだた。中国の役所の名前に倣ったのだろうが、なぜ「鴻臚寺」と呼ばず「鴻臚館」と呼んだのか?

 

私見だが、日本ではすでに仏教施設を「寺」と呼んでいたからではないか?

 

中国で、仏教の施設を「寺」と呼んだはじまりは1世紀(後漢)に洛陽に建てられた「白馬寺」だと言われている。天竺(インド)から招いた2人の高僧を白馬寺に泊めた。この時点では「鴻臚寺」と同じく「白馬寺」も、外国の賓客をもてなした施設という意味だったはずだが、この2人の僧が「白馬寺」を拠点として布教活動を始めたために、いつしか「白馬寺」が仏教の施設の名前だと認識されるようになったようだ。「白馬寺」は、仏教の普及とともに中国の主要都市に広がったようだ。56世紀頃の中国では「寺」といえば官公庁と、仏教施設二つの意味を持っていたのではないか。

 

そうした仏教にふれた中国人が念持仏をもって日本に渡り、ささやかなお堂を建てて「寺」と呼んだ。日本の人々も「寺」といえば仏様がいる施設だと言う認識ができていた。

 

だから、中国に倣って外国人の賓館を建てるときに「鴻臚寺」と名付けては、仏教寺院とまぎらわしいために「鴻臚館」と呼んだのではないかと思う。

 

日本のお寺の歴史は、正史よりもかなり古いのではないか、私は勝手にそう思っている。

 

徳島県つるぎ町旧一宇村の「つづろお堂」薬師如来をまつる


1988年に刊行された『阿波のお堂』は、徳島県内の仏堂をつぶさに調べ上げた労作だ。この本を読むと、「お堂」と呼ばれる仏様を祭る小さな建物は、平安時代初期、9世紀には阿波の各地に建てられていたことがわかる。

 

日本のお寺の原型は、こうした「お堂」に近いものではなかったか。

 

渡来人たちが自分のために仏を祀ったシンプルなお堂を、周囲の人々も信仰するようになった。中には、そこから発展して寺院になったものもあるが、そのまま発展することもなく、お堂のままで現在に至ったものもあると。

 

一方で、お堂は日本土着の「岐の神(みちのかみ)」や、古代に大陸から渡ったとされる「道祖神」とも深く関係があると言われている。「お堂」は、そうした雑多な信仰を融合させつつ今日まで永らえてきた。小さいが、一筋縄ではいかない魅力的な存在。「お堂」については、別項でまた触れたい

 

ともあれ、お寺のはじまりは、こうした小さな「お堂」をイメージすれば良いのではないかと思っている。

 

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